Me の感想

日記代わり

韓国映画「新感染」を見てきた話(感想文)

韓国映画 「新感染」を見てきた。

めちゃくちゃ面白かった。

以下、ネタバレを含む感想です。

(わたしは映画に詳しいわけでも、評論家になりたいわけでもなんでもないので、あくまで個人の感想だという点をご了承ください)

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生きるためにやってる仕事でしぬという件

先日ひさしぶりに会った友人が軽くしんでた。

厳密に言うと、体力的にも精神的にもめちゃくちゃ疲れてた。なんでも転職先の会社でまかされた仕事の量が半端なく、ほぼ毎日のように退社は22時過ぎ。あまりのハードさに土日に何もする気が起きず、趣味で続けていたダンス教室やジムにも、もう全然行ってないと言う。

こういう話を聞くたびに、「ひとはなんのために働くのか」ということについて考えてしまう。だって、ひとが働く目的のひとつは、「生きる糧を得るため」だと思うんだけど、生きるためにやってる仕事で結果こころやカラダが「しぬ」んだったら、もうそれは生きるためにやってはいけないことなんじゃないかとすら思うんだよね。

もちろん、たくさん働いたぶんお金はたくさん入るのかもしれないけど、土日の休日に何もする気が起きないぐらい疲れているんだったら、そのたくさんのお金はいつ使うんだろう、とか、そういうことも思ったりする。

だから、無責任と言われるのを承知で、仕事で軽くしんでるひとには「そんなに無理しなくてもいいんじゃない」と、辞める選択肢もあるってことを示唆するんだけど。でもみんな結構まじめだからさ、「辞めたら会社に迷惑がかかる」とか言うんだよね。責任感がすごく強いんだよね。あとはまあ、辞めることへの不安とか、プライドとか世間体とかも、もちろんあると思うんだけど。でもさ、そんなふうに、あなたが会社のことを考えている、その同じ熱量で、会社もあなたのことを考えているのかな?って思う。

仕事はお金を得る手段のひとつなので、仕事をやめる=お金がなくなる、という不安は誰しも持っていると思うんだけど。

でも、お金がないことよりも、やりたいことがない、あるいは、やりたいことをやる気力がないことのほうが生きていてつらいと思うんだよね。だから、仕事で疲れすぎて楽しいことですらやるエネルギーがなくなっちゃったら、それは、つらい生き方のほうへ進んでしまっているんじゃないのかな、と思う。

 

口ぐせには、そのひとの「生き方」が出る

最近、ちょっとものすごく疲れる(矛盾してる表現だが)ことがあった。

全容を書くのも、これまたものすごく疲れるので、ものすごくかいつまんで書くと、

知人で開業を考えてるひとがおり、応援の気持ちから「手伝いますよ」と軽い気持ちで言ったところ、予想以上に負担が大きい作業を頼まれ、少しやってはみたもののやはり体力的にも精神的にもキツく「すんませんやっぱ無理っす」と告げてみたところ相手から「勝手だ」と批難されてしまったのである。

念のために書いておくが、わたしが相手のためにしたことはすべて無償で行った。ちょうど仕事がひと段落して暇だったのもあったし、ひとのために何かをすること自体は嫌いじゃない。

ただ、手伝いを始めてみて、徐々にだが相手の要求がエスカレートしているのを感じた。手伝いの内容も最初に聞いたものとは変わり始めていた。なので、申し訳ない気持ちがなかったわけではないが、自分を守るために手を引く決断をした。

とはいえ、わたしのほうも深く考えずに安請け合いしてしまった感はあったので、その点はひとまず反省し謝った。困ったのが、こちらはもう手は出さないという意思を伝えているのにも関わらず相手側があきらめる気配がなかったことである。

「一度引き受けた以上はやってくれないと困る」

「期待させておいて、無責任だ」

「失望させないで」

などと、相手はひたすらに罪悪感を植え付けるような言葉を投げつけ、わたしをコントロールしようとしてきた。おそらく今までは、その手法で他の人間を思い通りに動かしてきたのだろう。ただ、わたしがその手の脅しには反応しないニンゲンなのだということがわかると、相手はこのように言ってきたのである。

「あなたは、クリスチャンなんだから…」

これには驚いた。あたしゃびっくりだよ(ちびまる子の声で)。たしかにわたしはクリスチャンである。えっ、だから、何?クリスチャンだから奉仕しろって?クリスチャンだから約束は守れって(そもそも、相手と明確な約束はしてないんだけど)?クリスチャンだから自分の精神と体力を犠牲にして他人を幸せにしろって?

もうなんだかとにかく、やっべぇぞ!って感じだけど、何が一番やっべぇぞ!かって言うと、相手はクリスチャンでもなんでもないんである。クリスチャンでもなんでもないひとが、「クリスチャンとは、○○であるべき」と、自分が勝手に抱いた「理想像」を、さもそれが正解であるかのように押し付けてきたのである。

これは例えて言うならば、これを読んでいるあなたに対してイタリア人が「あなたは日本人なんだから、O・MO・TE・NA・SHI、するべきだよ」と言ってくるようなもんである。

もう~~す~~げぇ~~~めんどくせぇ~~~~~~~と思ったので適当に会話を切り上げて、以来、相手とは会っていない。

 

で、ここからが本題なんだけど、

多分相手は、周囲から「あなたは(役割)なんだから…(○○するべき)」と、何度も言われ続け、育ってきたのではないかと思う。

「あなたはお姉さんなんだから…(○○するべき)」

「あなたは女なんだから…(○○するべき)」

「あなたは嫁なんだから…(○○するべき)」

「あなたはお母さんなんだから…(○○するべき)」

etc...

そう言われるたびに、自分の意思よりも「役割に対する周囲の期待」を優先し、それに応える、という生き方をしてきたのだと思う。だから他人もそうするのが当たり前だと思っているし、自分が言われ続けてきた言葉だからこそ、自然と口から出てくるのだろう。

気の毒なのは、誰も彼女に対して、こう言ってあげなかったこと。

「それって、誰が決めたの?」

って。

「(役割)なんだから○○するべき」とか言ってくる人間のほとんどは、自分にとって都合のいい解釈を相手に押し付けているに過ぎない。上の例で書いたイタリア人は「日本人なんだから、おもてなし精神を持つべき」と言っているわけだが、そう言われたらほとんどのひとが「いやいやいや、すべての日本人がおもてなしが得意なわけじゃねえし!てか、日本人である前に、わたしはわたしだっつーの!」と思うのではないだろうか。

そう、役割とか肩書とか人種とか、その前に、わたしはわたしだし、あなたはあなた。自分が正しいと思っていることが、すべてのひとにとって正しいことだとは限らないし、当たり前だと思っていることも、「善」も「悪」も、判断基準はみんな違う。いわゆる「価値観の違い」ってやつなんだけど、「(役割)なんだから○○するべき」と他人の価値観を押し付けられ、自分の価値観を受け入れてもらった経験がないひとは、それがわからないんだと思う。

もし周りに「○○するべき」「○○するのが当然」などと、「誰が決めたの?」ということをドヤ顔で言ってくるひとがいたら、そのひとは何らかのきっかけでやっべぇぞ!な奴になっちゃう可能性が無きにしも非ず。ちょっと気を付けたほうがいいと思う。

そしてもしも、これを読んでいるあなた自身、「○○するべき」と口にする機会が多いのであれば、一度考えてみて欲しい。それは本当に、あなた自身の価値観なのか。それとも、いつの頃からか、一方的に押し付けられ、刷り込まれたものなのか。